本やTV番組やインターネット等で、この両字について「「かき」の旁は5画で、「こけら」の旁は縦棒を貫いて4画で書く」のだという意見が存在する。両字を書くときに、この書き分けをすることは問題ない。
しかし、さらに、「上記の書き分けをしなければ誤りである」つまり「旁を5画で書くのが「かき」で、旁を4画で書くのが「こけら」である」という考えも存在している。が、このような「書き分けなければならない」という考えは不適である。
世の中には「漢字は、各1字が、それぞれ別のたった1つの字体をもつ」のような考え方が強かれ弱かれ存在し(この考え方こそが誤りである)、「かき」と「こけら」の書き分けもその考えから生まれたものだと思われる。
「かき」と「こけら」の書き分け問題は、「I(大文字アイ)」と「l(小文字エル)」のそれに似る。
「大文字アイ」と「小文字エル」は基本的には両方とも縦棒1本であるが、長さを変えたり、端部を曲げたり、あるいは上や下に短い横棒(セリフ)をくっつけたりして区別することもある。このような区別(書き分け)は、人によって異なり、「こう書かなければならない」といったルールは存在しない。「「かき」の旁を5画にして「こけら」の旁を4画にする」というのも、書き方で両字を区別する方策の一例でしかない。
中国の印刷字体を見るとたしかに「旁5画=「かき」、旁4画=「こけら」」が規範となっているが、日本にはそのような決まりはない。「かき」は常用漢字なので(少なくとも漢字テストにおいては)旁5画で書くべき字であると思われるが、「こけら」は表外字なので基準はなく、「かき」同様に旁5画で書いても誤りとはいえない。
付:歴史的にどう書かれてきたか
現在「市」のように書かれる部品には三種類の由来が存在する。- 「市」:市場の「市」。
- 「𠂔」:「かき」、姉妹の「姉」、大きな数を表す「秭」等。
- 「巿」:「こけら」、内臓の「肺」、地名に用いられる「沛」等。
画像:「2.𠂔」と「3.巿」に従う字の漢印の字形
しかし、前漢晩期~後漢初期の簡牘の隷書字形を見ると、これらは全て区別のない形になっている。「1.市」「2.𠂔」「3.巿」とも縦画は上から下まで貫かれており、4画で書いていたものと思われる。このように、似た形の部品が同形にまとめられるような変化は、隷変においては一般的なことである(「月」と「肉」のように)。
画像:「2.𠂔」と「3.巿」に従う字の漢簡の字形
これらの字が「亠+巾」の5画で書かれるようになるのは、それよりも後である。最も早いものでは西晋代の碑刻に見られる。南北朝代は、漢字使用人口が増加して多くの異体字が生まれた時期である。
画像:晋南北朝碑刻の「亠+巾」の5画で書かれた字
唐代になると「字様(書)」と呼ばれる、漢字字体の手引きが作られるようになる。唐代の字様書である《正名要録》や《五經文字》では「2.𠂔」と「3.巿」の書き分けが提唱されている。「2.𠂔」は篆書にならって下部に短い画を加えるというものである。縦画はともに上から下に貫かれているが、《正名要録》には「巿市,二同。」とあり、縦画を貫く4画も「亠+巾」の5画も同じであるとしている。《五經文字》は「かき」「こけら」の両字の書き分けを提唱した最初の書物であろうと思われる。
画像:《正名要録》と《五經文字》の字
これらの字様の影響で、唐晩期~明代に編纂された字書・韻書の多くはこの書き分けに従っている。しかし、民間にはそこまで浸透しなかったようである。例えば明代の《食物本草》には「柿(かき)」と「肺」が複数回でてくるが、全て「亠+巾」で書かれている。
明晩期の字書《字彙》は異なる書き分けを使い、それにより《康熙字典》の字形はバラバラになっている。
画像:《康熙字典》の字
「旁を「亠+巾」の5画で書くのが「かき」で、旁を縦画を貫いて4画で書くのが「こけら」」はどこからきたのだろうか?
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