2018/07/16

「辛」の字源は「入れ墨に用いる針」ではない

漢字カフェ」内の以下の記事に「辛」字の字源についての記述があった。

あつじ所長の漢字漫談35 激辛もほどほどに | コラム | 日常に“学び”をプラス 漢字カフェ
http://www.kanjicafe.jp/detail/8099.html
 トウガラシなどのからい味を「辛」という漢字で表現しますが、この「辛」は、もともと入れ墨を入れるのに使う針をかたどった文字でした。
 この入れ墨を入れるために皮膚を傷つけるのに使われるのが「辛」という針で、そこから「辛」が「罪」という意味をあらわすようになりました。このように「辛」が犯罪人に対する刑罰の意味に使われ、そこから「つらい」という意味をあらわし、そこからさらに意味が拡張したのが、味覚の「からさ」なのです。
この、「辛」字の本義が「入れ墨を入れるのに使う針」であるというのは、文字学的説得力を持たない、誤った推論と根拠のない憶測による説である。




「辛」字を「黥刑の道具」とする説を最初に提唱したのは郭沫若[1]で、以降いくつかの学者がそれに従う。それらの多くは「辛」字を「黥刑に使う鑿」としているが、上記記事で「黥刑に使う針」としているのは白川静の説を引用しているからであろう。鑿か針かは問題ではない。以下、「辛」が「黥刑の道具」ではない理由を「用法」と「字形」の二面から述べる。


一、用法

1.「辛」字に【罪】【刑罰】という意味はない

記事には「「辛」が「罪」という意味をあらわす」とあるが、古籍中で「辛」字が【罪】義を表すのに用いられた例はない、つまり、「辛」字に【罪】という意味はない。また「「辛」が犯罪人に対する刑罰の意味に使われ」とあるが、「辛」字に【刑罰】という意味もない。

《説文・辛部》には以下のようにある。
辛,秋時萬物成而孰。金剛,味辛,辛痛卽泣出。从一从辛。辛,辠也。辛承庚,象人股。凡辛之屬皆从辛。
この文中には「辛,辠也辛は辠(罪)なり)」とあり、しばしば「「辛」が「罪」という意味をあらわす」とする説の根拠になっている。しかし、その直前には「从一从辛」とあり、「辛」字は「一」と「辛」の合字であるとしており、この記述が誤りであるのは言うまでもない。それと合わせて考えれば、段玉裁が改めたように、この部分は正しくは「从一从䇂。䇂,辠也。」である可能性が高い。
「䇂」字について《説文・䇂部》には以下のようにある。
䇂,辠也。从干、𠄞。𠄞,古文上字。凡䇂之屬皆从䇂。讀若愆。張林説。
ここに「䇂,辠也。」とあって上記の仮説と一致する。「䇂」字と「辛」字は形こそ似ているものの、音・義とも異なる別字である。

ゆえに、【罪】義をもつのは「䇂」字であって、「辛」字にそのような意味はない。

2.「辛」字に【黥刑の道具】という意味はない

1.と同様、「辛」字が【黥刑の道具】という意味で使われた例はない。

《国語・魯語上》には刑に用いる道具に関する記述がある。
大刑用甲兵,其次用斧鉞,中刑用刀鋸,其次用鑽笮,薄刑用鞭扑,以威民也。
韋昭の注に「笮,黥刑也。」とあり、黥刑には「笮」というものが使われるとしている。無論、「辛」字と「笮」字は別字である。

ゆえに、黥刑に使われる道具は「笮」であって、「辛」にそのような意味はない。


二、字形

1.黥刑を表す字に「辛」が含まれない

黥刑を表す字には「黥」「墨」等、「黑」が含まれる字が多いが、「辛」字をふくんだ字はない。

古文字中の刑を表す字はしばしば象形性のある字体でもって文字化される。「劓(はなきり)」「刵(みみきり)」「椓(去勢)」は切除部位の象形と刀(刃物)を組み合わせた字体で表されている。また「刖(あしきり)」の古文字は人間の脚部に齒付きの刃物を当てている字体であり、先に引用した《国語・魯語上》に関して韋昭が「刖刑には鋸を用いる」とするのと一致する[2]


黥刑を表す字にも象形性のある字体が見られる。西周中晩期の青銅器である𠑇匜に以下の文章がある。
我義(宜)便(鞭)女(汝)千,AB女(汝),今我赦女(汝)。義(宜)便(鞭)女(汝)千,𬹚女(汝),今大赦。女(汝)便(鞭)女(汝)五百,罰女(汝)三百寽(鋝)。
乃師或㠯(以)女(汝)告,則侄(到)乃便(鞭)千、AB

文中の「AB」及び「𬹚B」は唐蘭[3]や李学勤[4]が黥刑を表す言葉であるとして以降、それが定説となっている。「A」字と「B」字は偏旁「𪐮*(この字の右部は「殳」とは異なる)」を共有し、残りの部分が声符の形声文字と考えられる。特に「B」字は「屋」字の初文である「⿱丰冖」[5]に従い、《廣韻・屋韻》「墨刑名」とある「𪑱」字であろう。
「A」「B」字の意符である「𪐮*」字は、先の「刖」字の古文字と構成が似ており、黥刑の様子を表す象形字と思われる。「𪐮*」字中の右上部(C)が黥刑に使われる道具の象形と考えられるが、「C」と「辛」は形が大きく異なる。したがって「辛」を黥刑に使われる道具とするのは不適である。

なお、「𪐮*」字に似た字に「D」字があり、一般的に考えて「乍」が声符の形声字と思われるが、これが「C(殳*)」字に声符として「乍」を加えた字であるとすれば、「C(殳*)」字は「笮」字の初文である可能性が高く、《国語》韋昭注の記述とよく合致する[6]

2.「辛」を含む字に刑罰に関連する字がない。

郭沫若及びそれに従う者は、「辛」を含む字として「童」「妾」などの字を挙げ、また《説文・䇂部》「童,男有辠曰奴。奴曰童。女曰妾。」を引用して、「童」「妾」が【受刑者】や【罪人】などの意味であったとする。
しかし、西周中期以前の古文字を見れば「童」「妾」字は「辛」に従う字ではないことがわかる。「辛」字、及びそれに従う「新」字の古文字字形は、▽状の部分の下部にY字(「\/」)状の枝がついており、例外はない。一方で「童」「妾」字の上部は▽部分のみかあるいはその下部に短い横画があるのみで、「辛」とは明らかに形が異なる。これらが混同されたのは西周中晩期以降である。

また「童」「妾」字は【奴隷】のような意味はあるものの、直接罪・刑罰に関連するような用例はなく、また奴隷と罪人を同一視する考えが殷代にあったという証拠がないことが指摘されている[7]

この他、「宰」「辟」「屖(遲)」「龍」「鳳」「章」「商」「竟」「競」「言」「僕」等の字が挙げられることがあるが、いずれも古文字において「辛」とは形が異なり、また意味においてはいくつかの字は奴隷に関連しているものの、「辟」字を除けば罪・刑罰と関連があるとは言い難い。


三、結語

以上のように、「辛」の意味或いはその字形が刑罰や罪に関連しているという証拠は一切なく、ましてや「入れ墨に使われる針」というのは完全に憶測でしかない、誤った説である。




[1]郭沫若《甲骨文字研究・釋支干》,大東書局,1931年,第11-17頁;宋鎮豪、段志洪主編《甲骨文獻集成》第八册,四川大學出版社,2001年,第60-63頁。
[2]趙佩馨(裘錫圭)《甲骨文中所見的商代五刑——並釋“𠚯”“剢”二字》,《考古》1961年第2期;《古文字論集》,中華書局,1992年,第210-215頁;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》,復旦大學出版社,2012年,第1-6頁。
[3]唐蘭《陝西省岐山縣董家村新出西周重要銅器銘辭的譯文和注釋》,《文物》1976年第5期,第59頁;劉慶柱、段志洪、馮時主編《金文文獻集成》第二十八册,線装書局,2005年,第369頁;唐蘭《唐蘭全集・論文集下編》,上海古籍出版社,2015年,第1806頁。
[4]李學勤《岐山董家村訓匜考釋》,《古文字研究》第1輯,中華書局,1979年,第153頁;《新出青銅器研究》,文物出版社,1990年,第113頁。
[5]裘錫圭《應侯視工簋補釋》,《文物》2002年第7期,第73頁;《裘錫圭學術文集・金文及其他古文字卷》,復旦大學出版社,2012年,第145頁。
[6]周忠兵《從甲骨金文材料看商周時的墨刑》,《出土文獻與古文字研究》第4輯,上海古籍出版社,2011年,第14-32頁。
[7]于省吾主編《甲骨文字詁林》第3册,中華書局,1996年,第2501頁。

3 件のコメント:

  1. 「䇂」字と「辛」字の違いについてよくわかりました。また、「【罪】義をもつのは「䇂」字であって、「辛」字にそのような意味はない。」とのことですが、
    2.「辛」を含む字に刑罰に関連する字がない。の項目で、例として挙げられている古字の童・妾の上部の字は「䇂」字ですか? 

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    1. 「童」「妾」の上部は形は「䇂」「弋」等の古文字に似ていなくもないですが、無関係と思われます。
      「龍」「鳳」字の上部も同様の形をしており、冠・頭飾の一種という于省吾の説が定説となっています。

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  2. ご返事ありがとうございます。参考になりました。

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