2018/01/19

六書の問題と誤解

※この記事では《説文》における六書と、《説文》における字源説の話をしています。

漢字字体の造字法の分類として「六書」というものがある。六書は《説文》で提唱され、その後《説文》が神格化されたため、今日まで六書分類は文字学分野でよく利用されている。しかし、この六書には多数の問題があり、また誤解も多い。この記事ではそれについて幾つか紹介する。

「六書」の問題と誤解

「六書」の語の初出は《周禮・地官・保氏》「保氏掌諫王惡,而養國子以道,乃教之六藝。一曰五禮,二曰六樂,三曰五射,四曰五馭,五曰六書,六曰九數。」である。とりあえずこの「六書」の意味はよくわからない。漢代の経学者は、《周禮》鄭玄注引《周禮保氏注》「象形、會意、轉注、處事、假借、諧聲也。」、《漢書・藝文志》引《七略》「象形、象事、象意、象聲、轉注、假借,造字之本也。」、そして《説文》叙の最初の方には「指事」「象形」「形聲」「会意」「轉注」「假借」の六つを挙げ、つまり六書とは六種類の造字法のことであるという解釈を行ったようである。しかし、《説文》叙の後ろの方では「古文」「奇字」「篆書」「佐書」「繆篆」「鳥蟲書」の六つの書体が六書だという。この六書は《周禮》の「六書」のことではないかもしれないが、《周禮》の「六書」から名称がとられたのは明らかである。したがって、《周禮》の「六書」の意味は結局のところ今もよくわかっておらず、六種類の造字法やら六種類の書体やらというのは後代の説の一つでしかない。
つまり六書説において、なぜ造字法が六種類に分類されているのかというと、「六書」の語に合うように六種類に設定されたからということになる。造字法を分類していった結果たまたま六種類になったわけではない。後代に《説文》が神格化されたため、なんとか整合性のとれる説が考えられたりもしているが、結局この分類は無理矢理ということである。事実、転注と仮借は明らかに造字法ではなく、ほかの四つと性格が異なる。

「全ての漢字が六書のどれかに分類できる」という誤解がある。もしかしたら誤解ではないかもしれないが、少なくとも《説文》にそんなことは書かれていないし、六書のどれに相当するかが説明されている字はごく一部だけである。現在の漢和辞典・漢字字典の多くの「解字」「なりたち」といった欄で、全ての漢字に対して、最初に六書のどれかが書いてあることがあるが、これは独自に各種類の定義を調節することによって「全ての漢字が六書のどれかに分類できる」ようにしたものである。
また「ある漢字は六書のどれか一つに分類できる」という誤解もあるが、これは転注と仮借の存在が反例となる。象形兼形声とかそういう例があったらおかしいという決まりはない。

「象形」の問題と誤解

《説文》叙に「倉頡之初作書,蓋依類象形,故謂之文。其後形聲相益,即謂之字。文者,物象之本。字者,言孳乳而寖多也。」とある。どうやらまず象形=文が生まれ、次に形声=字がうまれたということらしい。
「象形=文は独体字である」という誤解がある(独体字とはそれ以上偏旁分解できない字、一つの部品からなる字のこと)。《説文》にそんなことは書かれていないし、「𦙪,从肉。象形。」「舜,象形。从舛,舛亦聲。」など反例も多く存在する。特に叙において象形の例として挙げられている「日」を「从口一」の合体字としている。同様に「象形と指事を文、会意と形声を字という」「象形と指事は独体字、会意と形声は合体字」等の類も無からでた誤解である。

「会意」の問題と誤解

現状は「象形と指事は独体字、会意と形声は合体字」「全ての漢字は六書のどれか一つに分類できる」の誤解により「合体字から形声を抜いたものが会意」などとされていたりする。先に述べたように「会意だから象形ではない」「会意だから形声ではない」「象形・指事・形声ではないから会意である」という解釈は成り立たない。

《説文》叙で挙げられている会意の例は「信」と「武」、つまり「人の言うことが信」「戈を止めるのが武」といった類の字である。この例からは「安,从女在宀中。」「休,從人依木。」のような類を会意とするのは不適当に思える。
一方本文では、「喪,从哭从亾。會意。亾亦聲。」「敗,从攴貝。敗、賊皆从貝,會意。」「圂,从囗,象豕在囗中也。會意。」が会意とされている。「喪」は会意兼形声、「圂」は会意兼象形で、「安」「休」は「圂」と同類かもしれない。「敗」には「敗、賊皆从貝」とあるが、「賊」は「从戈則聲。」となっていて、結局会意がなんなのかはよくわからないが、本文の例からすれば合体字はほとんど会意に含まれるのかもしれない。

結論

六書は、はじめから多くの問題をかかえており、それに誤解が加わっているために、理論と現実の間でズレが生じている。漢和辞典・漢字字典をはじめ字源説を唱える者の多くは、独自に定義を調節してそのズレをどうにか整合化することによって、六書を利用し続けている。だが結局独自の定義で運用するなら、《説文》の六書説に従う必要は全く無い。

そういうわけで結局何が言いたいかというと、このブログでは基本的に造字法は「表意/形声」の二種類(時に下位分類を用いる)にしか分けないか、あるいは特に分類せず直接詳述する。

0 件のコメント:

コメントを投稿