2018/01/15

殷墟甲骨文中の「遠」「𤞷(邇)」と関連字

この記事は裘錫圭氏が1985年に発表した論文《釋殷墟甲骨文裏的“遠”“𤞷”(邇)及有關諸字》(以下《遠邇》)を和訳したものである。
裘錫圭が《遠邇》の初稿を書いたのは1967年のことであるが、この文章は結局発表されなかった。その後、1982年9月に《屯南》等の新出資料の発見に従って文章を書き改め、この《遠邇》は1985年《古文字研究》第十二輯において発表された。1992年、裘錫圭の著作集である《古文字論集》に収録されるにあたって末尾に追記が加えられた。1994年《裘錫圭自選集》にも収録されている。2012年《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》に収録されるにあたりさらに注釈が加えられ、卜辞の出典には《合集》の番号が加えられた。2015年には《中西學術名篇精讀・裘錫圭卷》に収録され、陳劍氏による新出資料や研究成果にもとづいた注釈が加えられた。
いま《中西學術名篇精讀・裘錫圭卷》収録の文章に基いて《遠邇》を和訳したものをここに公開する。ただし、翻訳は原文に忠実ではない。新出資料や研究成果に従い、文章を追加・削除・書き改めるなどした。また比較的古文字に不慣れな読者でも理解できるよう一部には詳しい解説を加えた。

先に《遠邇》の要旨を述べておく。
甲骨文中に以下の諸字がある。
A」は「遠」、「a」は「袁」の古文字である。「袁」は「衣+又」及び追加声符「〇(圓)」からなり、{擐【服を着る】}の表意初文である。「袁」「遠」はともに、卜辞中では{遠【遠い・遠く】}或いは固有名詞(人名・地名)として用いられている。
C」「D」「E」は「埶」の古文字で、「𠬞(又/𦥑)+木(屮/个)+土」からなり、{藝【植える】}の表意初文である。卜辞中では「C」は本義{藝}、「D」は{設【設置する】}として用いられている。
B」「F」は「埶」に「犬」を加えた字で、西周金文の「𤞷」字であり、卜辞中では{邇【近い・近く】}あるいは固有名詞(地名)として用いられている。{邇}には「B」が、固有名詞には「F」が多用される傾向がある。

裘錫圭は《遠邇》文において、幾多の文字学的証拠を挙げて上記考釈が正しい(であろう)ことを証明している。いま世間では文字学的証拠に欠けたトンデモ字源説などが流布しているが、この《遠邇》文を通して、古文字考釈とはどのように行われるのか、「文字学的証拠」とはなにか、といったことを読み取って欲しい。
知識は関連書籍や論文を読むことで積み重ねていくものである。しかし、多少興味はあるという程度の層や、最近学び始めた者などは、どこから手をつけていいかわからないかもしれない。そこで、容易に手がとれるように日本語に翻訳した上で、いま一編の論文を例として取り上げる。裘錫圭《遠邇》を取り上げたのは、この論文に古文字考釈において重要な要素が多く詰め込まれているからである。この記事によって、初学者の最初の一歩のハードルが下がることにつながれば幸いである。

(以下、正文)



無名組甲骨文(無名組は甲骨文の字体分類組の一つ)[1]に「A1:⿰彳⿱衣又」「B1:⿰⿱个土犬」字を含む以下の卜辞が見られる。
  1. 王其田A1,湄(彌[2])日亡𢦏(災)。
  2. B1田,湄(彌)日亡𢦏(災)。
    《屯南》3759;無名組
両辞は連続して書かれており、対貞の関係にある(同内容を二つの相反する側面から記述した卜辞を対貞卜辞という)。(1)の「A1」は卜辞の通例からして、田猟地名と解釈できる(卜辞における「田」は地名を目的語にとって「~へ狩猟に行く」という意味の動詞に用いる)。しかし一方で、(2)の「B1」は地名とは考え難い(言うまでもないが漢文では他動詞の後にその目的語が置かれる(SVO)。卜辞において倒置(VO→OV)が起きる場合は、多くの場合」「隹」が目的語の前に付く(SOV))。したがって、(1)「王其田A1」は(2)「B1」と対応するのだから、(1)の「A1」もおそらく地名ではない。
  1. □其田于□,其A1,[湄(彌)]日亡𢦏(災)。
    《合集》28705;無名組
(3)の「A1」は「」の直後にあり、(2)の「B1」と似た用法である(また「其田于□」の「于」の直後の字は欠けていて不明とはいえ、この欠字は明らかに田猟地名であるから、「A1」は地名ではありえない。よって、(1)「王其田A1」は「王其田,其A1」或いは「王其A1田」の意味で、また「A1」「B1」は地名ではなく相対する意味をもつ詞と推定できる。

A1」「B1」の対応は以下の卜辞にも見られる。
  1. A1[⿸𠇦土]。
  2. 才(在)B1[⿸𠇦土]。
    《合集》30273⊂《合補》10395;無名組
「⿸𠇦土」字についてはよくわかっていないが、文例からその意味を推し量ることができる。
  1. 王其乍(作)[⿸𠇦土]于旅□邑□其受□
    《合集》30267;無名組
  2. 〼其乍(作)王[⿸𠇦土]于兹,𧗟(侃[3])[王]。
    《寧滬》2.113;無名組
  3. 丁卯王其尋𭓠[⿸𠇦土],其宿,亡𢦏(災)。
  4. 弜(勿)宿,其每(悔)。
    《合集》27805⊂《拼集》174;無名組
  5. 于盂[⿸𠇦土],不雨。
    《合集》30271;無名組
卜辞文例より、[⿸𠇦土]はおそらく後代の行宮のような建築施設の一種と思われる((6)(7)で「作」の目的語となっていることや、(8)(9)より宿泊に関連しそうであることに注意)[4]。𭓠[⿸𠇦土]や盂[⿸𠇦土]は𭓠や盂に存在する[⿸𠇦土]であろう。𭓠と盂はともに商王がよく田猟地として赴く地である。
上記の[⿸𠇦土]に関する対貞卜辞において、(5)「B1[⿸𠇦土]」の介詞(前置詞)には「在」が用いられ、(4)「A1[⿸𠇦土]」の介詞には「于」が用いられていることに注目してほしい。祭祀日時に関する卜辞において、「今」と「翌」「來」が対貞になっているとき、往々にして「今」の前には「叀」が置かれ、「翌」「來」の前には「于」が置かれる。
  1. 叀(惠)今夕𫹉。
  2. 于翌日𫹉。
    《合集》30842;無名組
  3. 叀(惠)今日。
  4. 于來日。
    《合集》29734;無名組
また「翌」と「來」が対貞になっている場合は、往々にして「翌」の前には「叀」が置かれ、「來」の前には「于」が置かれる。
  1. 其又(侑)大庚,叀(惠)翌日𫹉。
  2. 于來日庚𫹉。
    《合集》27167;無名組
つまり、祭祀日時に関する対貞卜辞において介詞が異なっている場合、現在から近い時間の側の前には「叀」が置かれ、現在から遠い時間の側の前には「于」が置かれるということである[5]。(4)(5)の「在」「于」の違いも、この「叀」「于」の違いと同様である。したがって(4)「A1[⿸𠇦土]」と(5)「B1[⿸𠇦土]」には遠近の違いがあることが推察される。

以上の推察をもとに、「A1」「B1」の字体及び文例を考慮すると、「A1」は後代の「遠」字、「B1」は西周金文中で「邇」として用いられる「𤞷」字である。



以下、まず「A1」について述べる。
なお、(1)(3)は比較的新出の卜辞ということもあり、「A1」について述べた先行文献は少ない。池田末利は(4)「A1」について「地名であらう」とだけ言う[6]

無名組卜辞中に「A1」と近形の字「A2」があり、或いは略して「A3」に作る。
  1. A2
  2. 于[⿱辳又][⿱凶十](擒)。
  3. A3[⿱凶十](擒)。
    《屯南》2061;無名組
多くの漢字字体構造の原則から言って、「A2」「A3」字は「彳」が意符、旁の「a2:⿱⿴衣〇又」或いは「a3:⿴衣〇」が声符の形声字であろう。「a2」「a3」は西周金文の「睘」字にも含まれる(《金文編》第184頁(第四版第234頁)を参照(《新金文編》第408頁))。
西周金文の「睘」は「目」が意符、「a2」「a3」が声符の形声文字と考えられる(伯睘卣の「睘」字は「a2」と「萈」に従う。「萈」は声符で、「目」が変形音化したもの[7]。「A2」「A3」は、「睘」と同声系字(同じ声符に従う字)であるから近音、おそらく字体からみて後代の「遠」字である。
《説文・目部》「睘,从目,袁聲。」、同《辵部》「遠,从辵,袁聲。」、「睘」と「遠」はともに「袁」声系字であるから近音である。「遠」は意符「辵」に従うが、古文字ではしばしば「辵」と「彳」は交替し[8]、西周金文中の「遠」字にも「彳」に従うものがある(番生簋蓋(《銘圖》05383)など、《金文編》第83頁(第四版第104頁)を参照(《新金文編》第192頁))。「A2」「A3」は「彳」を意符とする「睘」と近音の字、したがって「遠」字と解釈できる。

A1」字は「彳」が意符、旁の「a1:⿱衣又」が声符の形声字であろう。もし「a1」と、古文字における「睘」「遠」の声符「a2」「a3」とが同一であれば、「A1」字もまた「遠」字と解釈できる。
a1」字は賓組甲骨文において、甲骨納入記録の署辞[9]に見られる(賓組は甲骨文の字体分類組の一つ)
  1. a1入五十。
    《合集》5884;賓組一類
  2. a1入五十。
    《合集》18165+9307反;賓組一類
また無名組卜辞にも見られる。
  1. [⿱⿴𦥑刀酉](鞀[10])庸在八*,又肉,其a1
    《合集》31012⊂《拼三》632;無名組
かつて、「a1」字は卜辞中にしばしば見られる「⿰衣又」字と同一字と見なされており(《甲骨文編》第0377号)、郭沫若は「裘之異文。當讀爲祈求之求。」とする[11]が、「⿰衣又」字は「卒」と解釈すべき字[12]で、「a1」字とは別字である。
一方、無名組甲骨文に「a1」と「〇」からなる字「a4:⿳〇衣又」が見られる。
  1. 〼來廼令a4𫭠(往)于〼
    《合集》27756;無名組
古文字においては往々にして偏旁の位置関係をかえた異体字が用いられる。
「〇」は「圓」の表意初文(「〇」字は「圓」字より以前に{圓}を表した表意字である)で、「員」「袁」の声符になっている[13]。「a4」と「a2」はどちらも「a1」を意符、「〇(圓)」を声符とする形声文字で、一字異体である。
古文字において一般的に形声字は一つの意符と一つの声符から構成される。形声字の意符がまた会意字であるとき、ほぼ例外なく既存字に声符が加えられてできた字である。言い換えれば、この種の形声字の意符はその字の初文であるといえる。例えば「寶」字の「缶」、「散」字の「月」、「樂」字の「白」等、みな後から加えられた声符で、その残りの部分が初文である[14]
したがって「a1」は「a2」「a4」の初文、「〇(圓)」は追加声符である。ゆえに「A1」は「A2」と同字、「遠」字である。

A1」「A2」「A3」は皆「遠」の古文字である。その声符の「a1」「a2」「a3」「a4」は何と解釈すべきだろうか?
無名組甲骨文中に「a1」と「止」からなる字「a5:⿳止衣又」が見られる。
  1. a5
    《合集》30085;無名組
  2. a5〼每。
    《合集》31774;無名組
西周金文中の「遠」字の「袁」旁上部は「止」のように作る(《金文編》第83頁(第四版第104頁)を参照(《新金文編》第192頁))。また「環」字は時に「睘」ではなく「袁」を声符とするが、やはり上部を「止」のように作る(《金文編》第21頁(第四版第25頁)を参照(《新金文編》第50頁))。この「袁」は「a5」と「〇」で構成されていることが明らかである。戦国文字・小篆中の「袁」字の上部の屮形の部分、隷楷書の「袁」字の上部の十形の部分は、みな上記「止」の訛変である。先に述べた形声字の法則から、「a5」は「袁」の初文、「〇」は追加声符であるといえる。
a2」と「a5」はともに古文字において「遠」や「睘」の声符として用いられており、かつ近形で、一字異体と考えられる。したがって、「a1」「a2」「a3」「a4」「a5」はみな「袁」と解釈できる。
a5」中の「止」はおそらく「又」の訛変である。古文字においてしばしば「止」と「又」は混用される。例えば、西周金文の「復」字の下部「夊」を「又」に作るものがある(《金文編》第87頁(第四版第111頁)を参照(《新金文編》第204頁))。また「𡄹(𤔔)」字の下部「又」を「止」に作るものがある(《金文編》第216頁(第四版第273頁)を参照(《新金文編》第469頁))。「袁」字の上部は「衣」の上部の斜画と「又」が結合したものと思われる。
甲骨文の「毓(育)」字に、意符として「a5」を加えた繁体がある。
この字体について胡厚宣は「右旁從兩手持衣,……,象女人産子,接生者持襁褓以待之。」という[15]。おそらくこの説は妥当、「袁」の字形は衣服の着用に関連することを表わしていると考えられる。字音とあわせて考えると、「袁」はおそらく「擐」の初文である。《左傳・成公二年》「擐甲執兵」杜注「擐,貫也。」、《國語・吴語》「服兵擐甲」賈注「擐甲,衣甲也。」、《顔氏家訓・書證》引蕭該「擐是穿著之名。」、「擐」は【衣服を着る】、特に【甲冑を身につける】の意味で古籍中に散見される。「擐」は匣母元部字、「袁」は云母(喩母三等)元部字で、両字は双声(云母と匣母は古くは同一)畳韻。また、「擐」は「睘」声系字で、「睘」「袁」はともに「〇」声系字。「擐」の古音は「袁」と極めて近く、字義は「袁」の初文の字形の表す意味に近く、したがって「袁」の本義(造字本義。字形が表す詞語)を表す後起字である。

甲骨文中の「袁」字はみな本義では用いられていない。
(20)(21)(23)「a1(袁)」「a4(袁)」は文例より人名だが、(20)(21)は賓組(武丁期)、(23)は無名組(廩辛~文丁期)に属するので、両者は同名といえども別人である(人名「a1」は《輯佚》257「辛未余卜,貞:a1眔我多目(臣?)歸。」にも見られる。この卜辞は子組(武丁期)に属し、(20)(21)の「a1」と同一人物と考えられる)。ただ、商代には族名を人名とすることもあるので、同じ袁族出身の者という可能性はある(賓組の「袁」と無名組の「袁」の字体の異なりが、刻手・時代の異なりから来るものではなく、同名異人(異族)を区別するための違いという可能性もある)。(17)(19)「a2(遠)」は文例より地名であり((17)~(19)はおそらく田猟卜辞。「遠」は介詞「于」の目的語になっている)、「遠」は「袁」を声符とし二字は通仮可能であるため、遠地は袁族の居住地と考えることもできる。上古時代、地名・族名・人名に密接な関係があったことは多くの学者が指摘している通りである。しかし、(17)(19)「」は(18)「⿱辳又」と対貞関係にある。「⿱辳又」字は「農」の古文字で、「耨」の表意初文である[16]。(17)~(19)の「⿱辳又」「」は地名ではなく農郊(《詩・衛風・碩人》「碩人敖敖,説于農郊」《毛傳》「農郊,近郊。」)と遠郊の対貞という可能性もある。
(22)「a1(袁)」の意味はよくわからないが、「其遠」と読むのかもしれない。
(24)(25)「a5(袁)」は残辞で意味を読み取り難いが、同版卜辞(《合集》30085「貞:其遘雨。○〼[湄(彌)]日亡𢦏(災)〼」)から両辞は田猟卜辞と思われ、「a5(袁)」は地名或いは「遠」の通仮かもしれない。
「袁」字が一般に本義以外の意味に用いられるようになったため、後代にその本義を表す「擐」字が作られた。このような現象は漢字発展の歴史において極めて多く見られるものである。「擐」字の声符「睘」は、「擐」の初文の「袁」を声符とする。これは、「疆」の声符「彊」が「疆」の初文「畺」を声符とする、「廩」の声符「稟」が「廩」の初文「㐭」を声符とするのと同様の現象である。



次に「B1」について述べる。
かつて「B1」は多く「戾」の初文とされてきた(《集釋》第3095頁)が、これは「B1」の左側が「立」と解釈されていたからである(「戾」の三体石経古文が「⿰立犬」に作る)。

上述の通り「B1」は一般に「⿰立犬」と隷定されている(《甲骨文編》第1194号)が、この字の左下部は明らかに「土」であって、「立」の下部がこのような形で書かれることはない。そして、左上部は「木」旁の簡体である。甲骨文において多く「木」旁と「屮」旁が交替することは、多くの古文字学者が知ることである[17]。ただ実際には、「木」旁は「屮」旁とだけでなく、「个」旁とも多く通用する。例えば、甲骨文中の「朝」「莫」字等に例が見られる(《甲骨文編》第20、24頁を参照(《新甲骨文編》第405、34-35頁))。また「散」の初文「㪔」は「木」に従う字だが、西周金文中の「散」字は多く「个」に従う[18]
したがって「B1」について「𤞷」と解釈することに問題はない。
《甲》1519(《合集》未収)に見られる字を《甲骨文編》は「⿰⿱午土犬」と隷定する(第1195号)が、この字もまた「𤞷」字である。
  1. 庚午卜,貞:王其田B1’
    《合集》28577;無名組
(26)の「田」の次の字「B1’」は(2)(5)「B1」字と若干字形が異なるが、やはり「𤞷」字である。「B1」はまた《英藏》2302「王其田B1,湄(彌)日亡【𢦏(災)】,不雨。」にも見られる。文例は(26)と同じで、この「B1」もまた「𤞷」字である。

「𤞷」は西周金文においてしばしば見られる字で、「犬」を意符、「𬂴」の簡体を声符とする形声字である。「𬂴」は「埶」の古文字で、後代「蓺」とも書き、また古籍においては多く「藝」と書かれる。「埶」「爾」の古音は近く(《尚書・舜典》「歸格于藝祖。」の「」を《史記・五帝本紀》は「」に作る)、「埶」と「邇(【近い】を意味する字。《説文・辵部》「邇,近也。」)」は通仮可能である。そのため西周金文(大克鼎(《銘圖》02513)・番生簋蓋(《銘圖》05383)・逑盤(《銘圖》14543))において「𤞷」は「柔遠能邇」の「邇」に借りて用いられる(「柔遠能邇」は周代の決まり文句で、《詩・大雅・民勞》や《尚書》等にも見られる)[19](このほか戦国楚簡では「埶」が多く「邇」に用いられている。《禮記・緇衣》「大臣不治,而邇臣比矣。」の「邇」を郭店楚簡本は「埶」に作る。上博六《用曰》「埶君埶戾……遠君遠戾」・清華《保訓》「上下遠埶」・清華《皇門》「又埶亡遠」の「埶」はみな「遠」と対になっており、「邇」と読むことに疑いはない)
冒頭の(1)(2)・(4)(5)の両対貞卜辞はともに「B1」と「遠」が対になっており、西周金文同様に「邇」と読むべきである。「遠[⿸𠇦土]」「𤞷(邇)[⿸𠇦土]」はおそらく王都から遠い[⿸𠇦土]と近い[⿸𠇦土]のことであろう。「王其田遠」「𤞷(邇)其田」は王が田猟を遠い場所で行うか近い場所で行うかの対貞である。

また甲骨文中には「埶」或いは「𤞷」の異体字と考えられる字がいくつか存在する。以下それらの字について述べる。

甲骨文において「C1:⿱⿴𠬞木土」字が見られる。
  1. □□卜,𡧊,貞:C1□于宫□(生?)。十二月。
    《合集》7928反;賓組一類
  2. □午卜,古,貞:C1木。
    《合集》5749;典型賓組
C1」については羅振玉の「兩手持木植於土上。疑是“樹蓺”之“蓺”。[20]という説が妥当である。西周金文中の「埶」字は「𡉣」と「丮」に従う(《金文編》第137頁(第四版第178頁)を参照(《新金文編》第317頁))が、古文字においては多く「丮」旁と「𠬞」旁は交替する。例えば、西周金文の「奉」字は「𠬻」或いは「𫡗」[21]に作り、また「對」字は「⿳业𦍌廾」或いは「⿰⿱业𦍌丮」に作る(《金文編》第119-122頁(第四版第157-158頁)を参照(《新金文編》第279-285頁))。
ゆえに「C1」と「埶」は一字異体とすることができる。卜辞において「C1」は本義で用いられており、(28)の「C1」は植樹の義であろう。
また「C1’」「C2:⿱⿴𠬞屮土」「C3:⿱⿰𠂇屮土」字が以下の卜辞に見られる。
  1. 貞:王其㞢(有)C1’,[生]。
  2. 〼不其生。
    《合集》5908⊂《契合集》217;賓組一類
  3. C2,生。
    《合集》9554⊂《綴彙》876;賓組一類
  4. C3,不其生。
    《合集》9555⊂《綴彙》876;賓組一類
字形(古文字において「𠬞」旁と「又(𠂇)」旁、また「木」旁と「屮」旁はしばしば交替する)および文例からこれらは「C1」および「埶」の異体字であることが明らかである。《合集》11006反「貞:其㞢(有)C1’,生。」の「㞢(有)」の次の字は不鮮明だが、文例よりおそらくまた「C1’」字と思われる。
以上の「C1」「C1」「C2」「C3」はみな賓組卜辞に見られる字で、「木/屮」「土」「𠬞/又(𠂇)」に従う。

無名組甲骨文に「D1:⿱⿰木又土(⿱权土)」字が見られる。「D1」字は「木」「土」「又」に従う字で、「C1」および「埶」の異体字であることは明らかである。
  1. 其𥄲(網[22]),于東方D1,[⿱凶十](擒)。
  2. 于北方D1,[⿱凶十](擒)。
    《屯南》2170;無名組
(33)(34)「D1」は「設」と解釈できる。「埶」は疑母月部(一説に祭(歌)部)字、「設」は書母月部字、二字畳韻(祭月:陰入対転)、「埶」声系字の「勢」は書母字で「設」と双声(また「邇」は日母字で「設」と同じ舌面音(章組))、したがって「埶」「設」は近音である。ゆえに武威漢簡《儀禮》は今本《儀禮》が「設」とする字の多くを「⿰圭丸(埶(「⿰圭丸」は「埶」の異写字))」に作る。(33)(34)は捕獣網を東方或いは北方に設置することに対する卜辞である。
無名組甲骨文には「D1」と「𥄲」に従う「D2:⿰𥄲⿱权土」字も見られる。
  1. 〼王D2𥄲(網),[⿱凶十](擒)。
  2. 先王D2𥄲(網),[⿱凶十](擒)。
    《屯南》778;無名組
  3. 〼王D2,[⿱凶十](擒)。
    《合集》28821;無名組
これらの「D2」は「埶(設)𥄲(網)」の「埶」の専字(特定の意味を表すとき専用の字[23]、或いは「埶(設)𥄲(網)」の合文であろう。

無名組甲骨文に「E:⿱⿴𦥑木土」と「犬」に従う「F1:⿳⿴𦥑木土犬」字が見られ、或いは「F2:⿳⿴𦥑屮土犬」に作る(字形は《甲骨文編》第1191号、文例は《類纂》第376-377頁を参照)。郭沫若はこれらの字について以下のように述べる。
F1”即金文“𤞷”字。……由卜辭与金文互証,知“𤞷”實“F1”之省。“F1”當从犬E声,“E”者“𬂴(埶)”之異,从𦥑与从丮同意。是則“F1”若“𤞷”當是“獮”之古文矣。 [24]
甲骨文において「𦥑」旁と「𠬞」旁はしばしば交替する[25]。ゆえに「E」字は「C1」字と一字異体とみなすことができる。したがって郭沫若の言うとおり、「E」字は「埶」字、「F1」字は「𤞷」字と解釈することができる。なお「E」字は無名組卜辞に一例見られる(《合集》27823)が、残辞で文意は不明である。
F1」「F2」字はまた或いは「F3:⿳⿴𦥑个土犬」に作り(《合集》29332)、「𡉣」部分の形は「B1」と同形である。このことは「B1」が「𤞷」字の簡体であることの更なる証拠とすることができる。

無名組甲骨文に「B2:⿰⿱止土犬」字が見られる。この字は左側が「𫭠(往)」字に近しく、「往」(《集釋》第561頁、《甲骨文編》第0201号)や「狂」(《集釋》第3107頁、《甲骨文編》第1189号)などと解釈されてきたが、「𤞷」字である。
  1. G田,湄(彌)日不冓(遘)大鳳(風)〼
    《合集》29236;無名組
  2. G田,湄(彌)日不[⿱冓止](遘)大鳳(風)。
    《合集》29234;無名組
B2」字の左側はおそらく「E」の簡体「⿱⿰个彐土」の訛変であろう。その上部の変化過程は既述した「袁」字上部の変化に似ている(「B2」字は「𤞷」の「木」旁上部の「屮」部分が「止」に変化したものである可能性もある。また「𤞷」と同じく「埶」の簡体を声符とする字に「逸」の初文「⿱止𡉣」字があり、これの影響も考えられる[26]。(38)(39)「G」の「G」は(2)「其𤞷田」と同じ用法であろう。(39)と同版の卜辞に「癸未卜,翌日乙王其〼」とあり、「其」の次の字は不鮮明であるがおそらく「A2(遠)」字と思われる。そうであれば、この卜辞と(39)は(1)(2)と同様の対貞卜辞であり、「B2」字は間違いなく「𤞷」字と解釈することができる。

B1」「B2」字は「邇」として用いられている一方で、「F1」「F2」「F3」字は卜辞中で、「王其田F1」(《合集》29330、29331、29335)、「弜(勿)田F1」(《合集》29335、29336、29340)、「叀(惠)F1」(《合集》29333、29334、《屯南》2531)、「王其射F1」(《合集》28806、28807)のように、地名として用いられている(《合集》29334において地名「⿱竹彳」「成」と並列されている)。無名組において、これらの異体字を意味によって使い分けていたものと思われる[27]。なお、歷組甲骨文においては「B1」を地名に用いている例が確認できる(《屯南》341)。



歷組甲骨文に以下の卜辞が見られる。
  1. 丙辰[貞],王其令[⿳𦥑冉土][⿱吅乂]于△東兆。
  2. 才(在)▲東兆奠[⿱吅乂]。
    《懷特》1648+《合集》33231;歷組二類
「△」字は「𦥑」と「衣」に従い、「袁」字である。また「▲」字は「B2」字と同一字体、すなわち「𤞷」字である。(38)「于△東兆」と(39)「在▲東兆」の対貞は(4)(5)の類例である。



[1]類組については黄天樹《殷墟王卜辭的分類與斷代》,科學出版社2007年を参照。
[2]沈培《釋甲骨文、金文與傳世典籍中跟“眉壽”的“眉”相關的字詞》;復旦大學出土文獻與古文字研究中心編《出土文獻與傳世典籍的詮釋——紀念譚樸森先生逝世兩周年國際學術研討會論文集》第27-31頁,上海古籍出版社2010年。
[3]裘錫圭《釋“衍”、“侃”》;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》第378-386頁,復旦大學出版社2012年。
[4]「⿸𠇦土」字に関する詳しい研究は宋華强《試説甲骨金文中一個可能讀爲“臺”的字》;中國文字學会《中國文字學報》編輯部編《中國文字學報》第四輯第19-24頁,商務印書館2012年を参照。ただしこの論文の結論は信用できない。
[5]《綜述》第227頁。
[6]池田末利《殷虚書契後編釋文稿》卷下第171-172頁,創元社1964年。
[7]謝明文《試説商周族名金文中“萈”的簡省及相關問題》;《商代金文的整理與研究》第684-697頁,復旦大學博士論文2012年、《導讀》第253-254頁。変形音化については《構形學》第88-89、109-117頁、また黄天樹《殷墟甲骨文中的“變形聲化”》;《黄天樹甲骨金文論集》第138-144頁,學苑出版社2014年を参照。
[8]《構形學》第45-46、335頁。
[9]甲骨納入記録については方稚松《殷墟甲骨文五種記事刻辭研究》,綫裝書局2009年を参照。
[10]裘錫圭《甲骨文中的幾種樂器名稱——釋“庸”“豐”“鞀”》;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》第36-50頁。
[11]郭沫若《殷契粹編考釋》第76葉表,文求堂1937年。
[12]裘錫圭《釋殷墟卜辭中的“卒”和“𧙻”》;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》第362-376頁。
[13]于省吾編纂《商周金文録遺・序言》,北京科學出版社1957年。
[14]《構形學》第79-87頁も参照。
[15]胡厚宣《殷代婚姻家族宗法生育制度考》第22葉表;《甲骨學商史論叢初集》,齊魯大學國學研究所1944年。
[16]裘錫圭《甲骨文中所見的商代農業》;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》第245-247頁。
[17]《構形學》第44-45、336頁。
[18]甲骨文中の「㪔(散)」字については于省吾《殷代的交通工具和馹傳制度》;《東北人民大學人文科學學報》1995年2期第106-107頁、裘錫圭《甲骨文中所見的商代農業》;《裘錫圭學術文集・甲骨文卷》第251-254頁を参照。
[19]西周金文中の「𤞷(邇)」字については孫詒讓《克鼎釋文》;《籀廎述林》卷七第14葉裏-15葉表、王國維《克鼎銘考釋》第1葉,《海寧王忠愨公遺書・觀堂古金文考釋五種》,1927年、郭沫若《兩周金文辭大系考釋・大克鼎》第121葉裏-122葉表,文求堂1935年、等も参照。
[20]羅振玉《殷虚書契待問編》第9葉表,1916年。
[21]楊樹達《六年琱生簋跋》;《積微居金文説・餘説》卷二第269頁,科學出版社1952年。また楊樹達《小子相卣跋》;《積微居金文説》卷六第167頁も参照。
[22]葛亮《甲骨文田獵動詞研究》;復旦大學出土文獻與古文字研究中心編《出土文獻與古文字研究》第五輯第52-53頁,上海古籍出版社2013年。「𥄲」字は王國維の「罞」と読む説が一般に受け入れられており、裘錫圭もこれに従う。葛亮は、古籍中で「罞」が動詞で用いられる例がないのに対し、卜辞中の「𥄲」字は「网(網)」と同用法で動詞・名詞ともに用いられること等から、「网(網)」の異体字とする。いま葛亮の説をとる。
[23]専字については《構形學》第64-67頁も参照。
[24]郭沫若《殷契粹編考釋》第129葉裏-130葉表。
[25]《構形學》第43-44、336頁。于省吾《甲骨文字釋林・釋臾》第302頁,中華書局1979年も参照
[26]王子楊《説甲骨文中的“逸”字》;《甲骨文字形類組差異現象研究》第244-248頁,中西書局2013年。
[27]異体分工現象については王子楊《甲骨文字形類組差異現象研究》第149-170頁を参照。



裘錫圭《釋殷墟甲骨文裏的“”“𤞷”()及有關諸字》;《中西學術名篇精讀・裘錫圭卷》第207-223頁,中西書局2015年。
陳劍《〈釋殷墟甲骨文裏的“遠”“𤞷”(邇)及有關諸字〉導讀》;《中西學術名篇精讀・裘錫圭卷》第224-295頁,中西書局2015年。

董作賓編著《殷墟文字編》,中央研究院歷史語言研究所1948年。
董作賓編著《殷墟文字編》,中央研究院歷史語言研究所1948年。
胡厚宣編《戰後寧滬新獲甲骨集》,來熏閣書店1951年。
陳夢家《殷墟卜辞綜述》,科學出版社1956年。
中國社會科學院考古研究所編《甲骨文編》,中華書局1965年。
李孝定編述《甲骨文字集釋》,中央研究院歷史語言研究所1965年。
郭沫若主編《甲骨文合集》,中華書局1978年。
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中國社会科學院考古研究所編《小屯南地甲骨》,中華書局1980、1983年。
李學勤、齊文心、艾蘭編著《國所甲骨集》,中華書局1985年。
姚孝遂主編《殷墟甲骨刻辭類纂》,中華書局1989年。
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段振美、焦智勤、黨相魁、黨寧編著《殷墟甲骨輯佚――安陽民間藏甲骨》,文物出版社2008年。
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劉釗《古文字構形學》(修訂本),福建人民出版社2011年。



補記
甲骨文中に見られる「木/屮」と「丮」に従う字はかつて多くの学者に「埶(藝)」と解釈されていたが(《甲骨文編》第111-112頁、《集釋》第869-876頁等を参照)、この字は「夙」と解釈すべき字で、上述の甲骨金文中の「埶(藝)」「𤞷(邇)」とは別字である。沈培《説殷墟甲骨卜辭的“𬂤”》;《原學》第三輯第75-109頁,中國廣播電視出版社1995年参照。

宋華強は、「B1’」字について、左偏の形状が他の「B1」字と異なることや「遠」と対になっていないことから、「⿰立犬(戾)」字であるとする。宋華強《葉家山銅器銘文和殷墟甲骨文中的古文“戾”》;中國古文字研究會、中山大學古文字研究所編《古文字研究》第三十輯第128-130頁,中華書局2014年参照。《新甲骨文編》(增訂本)もこれに従うが、陳劍は「B1’」字の左偏の形状が同版の「立」の形状と異なることから裘錫圭の言う通り「𤞷」字であるとする。

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